暮れゆく久米寺 若き空海の出会いを偲ぶ

 高野山から降りてきて、夕暮れが迫るころ、飛鳥の久米寺に立ち寄りました。近鉄橿原線・吉野線の「橿原神宮前」から徒歩10分ほど。午後5時すぎに着いたので、本堂の扉は締められ、境内は閑散としていました。

 久米寺は飛鳥時代には国内で最も大きな仏教寺院だったこともあるそうです。推古天皇や聖徳太子の弟君である来目王子のゆかりや、娘さんの白いふくらはぎに見とれて空から落ちた久米仙人の逸話で知られています。

 でもまあ、私がここに来たかったわけは、若き日の空海が『大日経』に出会った場所が久米寺の大塔だった、という伝承があるからです。空海の遺言とされてきた『御遺告』によれば、空海は夢枕に立った人物から「お前の求めているものは、久米寺の塔の下にある」と告げられ、『大日経』をみつけたといいます。ただ、近年の研究では『御遺告』は後世の作とみる識者が多く、この伝承の真偽もわかりません。

 久米寺は現在、空海が活躍した時代の大塔は礎石だけが残っています。かなり巨大な礎石がいくつもあるので、よほど立派な塔が建っていたのでしょう、往時の隆盛が偲ばれます。

そびえ立つ大塔の姿を偲ばせる礎石の数々

 空海にとって、『大日経』との出会いは決定的だったとみられています。その意味するところをもっと深く知りたくても国内には教えてくれる師匠もいないので、空海は唐に渡る決意をしたとも言われています。

 空海と『大日経』をつなぐキーワードは「如実知自心」という言葉です。「自心を実のごとく知るなり」と読みます。『大日経』では、「悟りとはなにか」と問われた大日如来が、その本質をずばりと答える言葉として登場します。その部分を現代語訳すると、「悟りとは何かといえば、とりもなおさずありのままに自らの心を知ることである」(松長有慶『大日経 住心品講讃』)となります。

 仏典を渉猟し、山林修行を続けていた若き日の空海は「如実知自心」という言葉と出会うことで、ありのままの自分の心を知るということが、そのまま仏の悟りを得る成仏の道筋になる、ということに「気づいた」、あるいは「確信した」と考えられています。

 空海と「如実知自心」という言葉の出会いについて、仏教学者の勝又俊教氏は「自己を見つめ、心の本性というのは結局、清浄なのだということに気づく。そう気づくことによって真実の自己、本当の我というものを見出してくる。空海はそこから進んで成仏を目指すのです。(中略)こういうぎりぎりの問題を空海は自分の心を掘り下げながら考えようとしているのです」(勝又俊教『密教入門』)と説明しています。

 自分の心を掘り下げながら悟りの道筋を見極めようとする空海の姿勢は、終生変わることがありませんでした。その思想は主著とされる『十住心論』やその要約版の『秘蔵宝鑰』に大成され、般若心経を解説した『般若心経秘鍵』にある「夫れ佛法遥かに非ず 心中にして即ち近し」(仏陀のさとりは決してはるか遠くにあるのではなく、自分自身の心の中に本来存在していて、きわめて近くにあるものなのです。現代語訳=加藤精一編「般若心経秘鍵」)という有名な言葉にもつながっていきます。

 先日、高野山大学通信課程のスクーリング授業で密教瞑想法の講義を受けたときには、「如実知自心」=「ありのままの自分の心を知る」というアプローチが密教瞑想法の核心部分にも繋がっていることを知りました。

 密教の発祥地であるインドで『大日経』が継承されず、もうひとつの密教経典の柱である『金剛頂経』から後期密教が生まれチベットで発展した歴史的な経過を考えると、日本の密教とチベット密教の分岐点がこのあたりにあるのか、とも思えてきます。

 久米寺には現在、江戸時代初期に京都の仁和寺から移築された多宝塔がそびえています。端正なフォルムの多宝塔で、重要文化財に指定されているそうです。大塔の礎石の前でぼんやりしていたら、いつのまにか多宝塔のうえに浮かんでいた雲が赤く染まっていきました。

 このまま燃えるような夕焼けになるかな、と期待しましたが、太陽はあっさりと厚い雲に隠れてしまい、赤みをさした夕空はあっというまに深い灰色に沈んでしまいました。

夕暮れ時の多宝塔。優美なフォルムをみせていました

[歩いた日 2018.10.13]

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