根来寺:真言宗の改革者が眠る奥の院

 和歌山の根来寺には、平安時代後期の12世紀初め、高野山を舞台に真言宗の改革に取り組んだ覚鑁(かくばん)上人の御廟所があり、奥の院と呼ばれています。歴史の教科書には出てきませんが、高野山は弘法大師空海の時代が終わってからわずか50年ほど経ったとき、当時の座主が弟子たちとともに離山し、伽藍も荒廃してしまいます。研究者たちが「暗黒時代」と呼ぶ衰退期は約100年に及びました。そんななかで真言宗を中興した人物と評価されているのが覚鑁上人です。念仏を唱える浄土教信仰が社会全体に広がる中、伝法院という道場を作って真言宗の教学と修行のかたちを整え、浄土教との融合を図ったことで知られています。

高野山の内部抗争と新義真言宗の成立

 ところが、改革を目指した覚鑁上人の動きは高野山内部を二分する抗争に発展。兵士たちまで動員される事態になり、敗れた覚鑁上人は弟子たち700人とともに高野山を脱出して根来寺に拠点を構えました。このあたりの経緯は、松長有慶著「高野山」(岩波新書)にわかりやすく客観的に書かれています。根来寺の僧たちは室町時代末期ごろから自分たちの真言宗を「新義」と称するようになり、豊臣秀吉によって僧兵たちの拠点となっていた根来寺が滅ぼされた後、長谷寺の豊山派や智積院の智山派などに分かれて現在に至っています。

 覚鑁上人はいつのまにか新義真言宗の始祖とされるようになり、徳川家が新義真言宗を庇護した江戸時代には興教大師という諡号を朝廷から贈られています。豊山派など新義真言宗の法要では、弘法大師の宝号「南無大師遍照金剛」に続いて「南無興教大師」と唱え、覚鑁上人への帰依を表明するのが通例です。


根来寺の奥の院に向けて真っ直ぐに続く参拝路

 こうした経緯をみると、覚鑁上人には死した後までも真言宗の宗派抗争に揉まれ続けたという印象がついてまわります。現在の御廟所は江戸時代に建てられたそうですが、真っ直ぐに伸びる大理石の参道は左右が墓地になっており、弘法大師空海の御廟がある高野山の奥の院を思わせる造りになっています。覚鑁上人はいずれ高野山に帰るつもりだったそうで、その志を果たせないまま没したわけですが、この参道には高野山への憧憬がにじむような気がしました。

覚鑁上人へのわだかまり:学侶と行人の対立感情

 高野山には奥の院の参道に覚鑁上人を祀る密厳堂(興教大師廟)があります。また覚鑁上人ゆかりの密厳院に宿泊すると、本堂に設置された御本尊の裏側に弘法大師空海の像と並んで覚鑁上人の像があり、一般の宿泊者も朝の勤行を終えた後に参拝することができます。それでも高野山では、覚鑁上人に対するわだかまりというか、微妙な感情が今も漂ってるように感じる時があります。

 高野山のあるご住職に覚鑁上人に対する評価を聞いてみたことがあります。ご住職は「以前は覚鑁上人を蛇蝎の如く嫌う空気が高野山にはありましたが、最近はそれほどではなくなりましたね」と前置きした後、「真言宗の教学に対する考え方などいろいろな理由が指摘されますが、もう一つ、外部の人にはわかりにくいことがあります。それは、高野山で長年の続いてきた学侶(がくりょ)と行人(ぎょうにん)の対立感情です。教学の立て直しで知られる覚鑁上人は、行人出身なんですよ」と教えてくれました。

 学侶は勧学会など高野山独特の教育プログラムを受けながら真言宗の教義を深く学ぶ僧侶たちです。これに対して行人は寺院の雑用から経営面にまで力を発揮する人たちです。高野山の学侶は伝統的に行人を自分たちよりも一段低くみており、それが覚鑁上人に対する高野山での評価に影響している、というのです。人間社会ならどこにでもありそうな話ですが、1000年近く前の対立感情がいまだにどこかで尾を引いているというのも驚きました。

覚鑁上人が眠る奥の院

[歩いた日] 2017.12.21
[天気]   晴れ

Share
Translate »