瀬戸大橋望む一遍の道場

 四国八十八カ所を歩き+鉄道・路線バスで回り始めて23日目となり、あと11カ所を残すだけになりました。この日はまず宿泊した坂出市から鉄道に1駅だけ乗って宇多津駅に戻り、前日に回りきれなかった第78番札所・郷照寺に向かって歩き始めました。宇多津駅前は整然とロータリーが整備されていて、計画的な新しい街を作ろうとしている感じですが、郷照寺に向かって山側に細い路地に入っていくと、宇夫階神社(うふしなじんじゃ)という丘陵地を境内に生かした立派な神社があり、歴史を感じさせる街道の雰囲気が出てきます。駅から15分ぐらい歩いたところで、郷照寺の山門につながる坂道の案内板がありました。郷照寺は海からせり上がってきた高台にあり、境内からは瀬戸大橋をアクセントにした瀬戸内海が望めます。

 郷照寺は四国八十八ヶ所でただ一つの時宗のお寺です。正確に言うと、真言宗と時宗の2つが伝わっているそうです。時宗というと、鎌倉時代に踊り念仏を広めた一遍上人が開祖です。一遍上人は現在の愛媛県松山市近くで勢力を持っていた別府氏という武家に生まれ、山岳修行者が集まった第45番札所・岩屋寺あたりで修行した経験を持つなど、四国八十八ヶ所にも縁浅からぬ宗教家でした。念仏信仰を唱え浄土教の先駆者となった空也を尊敬していたといわれる一遍上人の伝法スタイルは遊行と呼ばれ、拠点となる寺を持たず、旅を続けながら布教することが特徴でした。時宗が拠点となる定住の寺を持つようになったのは、一遍上人の死後のことです。

第78番札所・郷照寺は高台にあり、瀬戸内海を見渡せます。昔は境内のすぐ近くまで海岸線があったそうです

 一遍上人にとって郷照寺のある宇田津は、なじみのある土地だったかもしれません。一遍上人はその生涯で何度も四国と畿内を往復していますので、宇多津はその通り道にあったと考えられるからです。亡くなる前年の正保元年(1288年)には故郷の松山にいったん戻っていますが、そのときに郷照寺に3カ月間滞在し、踊り念仏の道場を開いた、と説明板に書いてありました。踊り念仏は踊りながら太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らして念仏を唱えるもので、YouTubeなどで検索すると動画がたくさんアップされています。

 一遍上人はその翌年、再び旅に出て、現在の神戸市あたりで没しました。死因は過酷な遊行による疲労と栄養失調だったとみられています。その後、郷照寺は兵火で焼けましたが、江戸時代に再興されたときに、真言宗と時宗の両宗とされたそうです。現在の郷照寺は厄除うたづ大師として知られています。

 郷照寺のお参りを終えて街に降りると、ちょうどお祭りの開催を知らせて回る山車に会いました。この日は宇多津秋祭りの当日で、山車は太鼓台と呼ばれており、祭りでは十数台の太鼓台が町内を練り歩くそうです。さきほど通りかかった宇夫階神社が祭りの中心とのことでした。揃いの真っ赤なはっぴを着た茶髪のお兄さんたちを先頭に太鼓台が目の前を通り過ぎると、ドンドンドーンと低い音の太鼓が腹に響いてきました。太鼓台には子供たちがまたがっていて、とても楽しそうでした。

ちょうど宇多津秋祭りのシーズンで、祭りの開催を触れ回るために、太鼓台と呼ばれる山車が郷照寺の門前を通るところに会いました

 第79番札所・天皇寺は正面には道幅の広い参道と赤い大きな鳥居があり、どうみても神社が主役といった境内です。この神社は、平安末期の保元の乱に破れて讃岐に配流となった崇徳上皇を祀る白峰宮で、3つの鳥居を組み合わせて瓦を乗せたような三輪鳥居という独特の鳥居がやたらと目立ちます。この鳥居は源頼朝が寄進したと伝わっています。この白峰宮の参道を挟んで両側に天皇寺の境内があります。

 配流のまま恨みを残して亡くなったとされる崇徳上皇の霊を鎮めるため二条天皇の命で崇徳天皇社が造営され、その崇徳天皇社が後嵯峨天皇の時代に現在の位置に移ってきた。明治時代になって神仏分離令で神社だけが白峰宮として存続し、お寺の摩尼珠院は廃寺とされたが、後になって末寺の高照院が移ってきて、現在は高照院天皇寺となった。四国八十八ヶ所霊場公式ホームページはこんな説明になっています。

 ちょっと分かりにくいので、宗教民俗学者・五来重の「四国遍路の寺」(角川ソフィア文庫)などで調べてみました。もともとは霊水信仰の霊場がこのあたりにあり、摩尼珠院というお寺になったのが起源で、そこに崇徳天皇社が移ってきて、摩尼珠院が崇徳天皇の霊を鎮める祭主の役を任され、実質的に神仏習合の霊場となった。ところが、明治時代になって神仏分離令で白峰宮が作られ、本来の霊場だった摩尼珠院は廃寺になってしまい、その摩尼珠院の院主は白峰宮の神主を任された。その後、摩尼珠院の末寺だった高照院が移ってきて本尊の十一面観音を守り、その高照院が天皇寺を名乗るようになった。だいたいこんな経緯のようです。

 ちなみに江戸時代のお遍路ガイドブックである眞念の「四國遍禮道指南」(しこくへんろみちしるべ)では、第79番札所は「崇徳天皇」となっていて、「正面は鎮守、左は札所」と説明しています。これは崇徳天皇社のことを指していて、鎮守(神社)と札所(お寺)が一体になっていたことがわかります。

 天皇寺のお参りを済ませて国分寺に向かおうとすると、白峰宮の正面からまっすぐに幅の広い道路が伸びています。いまは町屋に囲まれていますが、この道路が長い参道だったことは明らかです。崇徳上皇が地元の人々の崇敬を集めていたのか、もしくは明治時代の神仏分離令にあわせて作られた道路なのかわかりませんが、存在感のある札所でした。

左が白峰宮で、そのお宮を挟むかたちで天皇寺とも呼ばれる第79番札所・高照院の境内があります

 

【第23日 午前の部】
[歩いた日]2016.10.23 日曜日
[コース] 坂出市内−郷照寺−天皇寺−国分寺−白峰寺−高松市内
[天気]  曇り
[歩行距離] 24.0km
[歩数] 3万1484歩

 

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