少年空海が身につけた反骨

 四国八十八カ所第71番札所・弥谷寺の長い石段を降り、山門で一礼して、山道を下っていくと、高松自動車道の高架橋をくぐったあたりで池に出ます。このあたりから第72番札所・曼荼羅寺、第73番札所・出釈迦寺から第74番札所・甲山寺を経て第75番札所・善通寺まで札所が密集しており、弥谷寺も含めて空海が幼少期から少年期を過ごしたエリアです。空海の生誕地として善通寺と瀬戸内海に近い海岸寺の2カ所が伝わっており、出釈迦寺の奥の院となっている捨身ケ嶽(しゃしんがたけ)ではわずか7歳だった空海が身を投げる「捨身の行」を行ったとされ、弥谷寺の「獅子之岩屋」は空海が9歳ごろから12歳ごろまで学問修業に励んだ場所と言われています。こうした逸話の真偽はいまとなっては確かめようもないわけですが、空海は就学のため15歳で都に向かうので、それまでの人格形成期をこのエリアで過ごしたことは確かだと思われます。

 そんな空海は、実は反骨精神を持ち続けた人だった、という見方があります。とりわけ作家たちには、反骨精神と結びつけながら空海を描くひとが多いように思います。司馬遼太郎の小説「空海の風景」(中公文庫)とか松岡正剛の「空海の夢」(春秋社)などが代表例でしょう。空海は朝廷に認められて東寺や高野山を賜るなど仏僧として位階を極めたにもかかわらず、最後まで署名するときには「沙門空海」と名乗り、ひとりの修行僧という立場をとったのですから、作家ではなくても、そこに反骨や在野の精神をかぎ取ることはできるはずです。

第72番札所・曼荼羅寺。降り始めた小雨を避けようと、団体のお遍路さんが本堂の軒先に整列してお参りしていた

 反骨精神を育んだバックボーンとして、作家たちが注目するのは空海の出自です。空海の父方は佐伯氏ですが、この佐伯氏は元をたどれば、5世紀から6世紀にかけて大和朝廷の征服によって捕虜となり、各地に連れてこられた蝦夷の人々を統括する家柄だったとされます。このあたりは空海研究者の第一人者である渡辺照宏と宮坂宥勝が歴史資料を丹念に当たった空海論の労作、「沙門空海」(ちくま学芸文庫)にも記載されています。蝦夷とは現在の東北や新潟県あたりに住んでいた人たちで、縄文人の面影を色濃く残した人たちだと思われ、空海が生きた平安初期の朝廷からも「まつろわぬ人々」として敵対視されていました。坂上田村麻呂が朝廷の命を受けて征夷大将軍として蝦夷討伐を行うのは、空海の活躍した時期とほぼ同時代のことです。

 そうした空海の父方の家柄をとらえて、たとえば、司馬遼太郎は「空海の風景」の冒頭で、捕虜として讃岐地方に連れてこられた蝦夷のうち統治を任された有力な頭領が佐伯氏を名乗ったのではないかと推測しています。詰まるところ、「まつろわぬ人々」の血筋が空海にも受け継がれ、それが生涯ひとりの沙門を自負するような、空海の反骨精神につながったのではないか、という見方です。いかにも歴史作家らしいロマンにあふれています。

 空海は15歳で故郷の讃岐から都に出て、母方の叔父で当代の有力な学者だったとみられる阿刀大足の庇護もあって大学で学びました。ところが、エリート役人のコースを歩んでいたのに、途中で大学をやめ、修行の旅に出てしまいます。松岡正剛は「空海の夢」のなかで、空海の著書「三教指帰」の主人公になぞらえて「仮名乞児の反逆」というタイトルで、在野の名もない沙門たちに感化された空海が神仙や仏教に傾倒し、やがてエリート街道を捨てて修行僧としての道を歩んでいく心境の変化を想像力豊かに描いています。この時期の空海の足跡をたどる資料はほとんどないのですが、エリート街道を捨ててひとりの修行僧となっていく姿は、空海の反骨精神を彷彿とさせてくれます。

 曼荼羅寺と出釈迦寺は山号が同じ我拝師山です。曼荼羅寺から山すそを登ってだんだん傾斜が出てきたところに出釈迦寺があります。開基はどちらも弘法大師空海とされており、奥の院にあたる捨身ケ嶽も含めて、もともとひとつのお寺だったのだろう、と宗教民俗学者の五来重は著書「四国遍路の寺」(角川ソフィア文庫)で記しています。

第73番札所・出釈迦寺の太子堂。急に雨足が強くなり、カメラのレンズに水滴がついてしまいました

 

【第22日 午前の部その2】
[歩いた日] 2016.10.22 土曜日
[コース] 善通寺市内-弥谷寺-善通寺-金倉寺-坂出市内
[天気] 雨ときどき曇り
[歩行距離] 22.7km
[歩数] 2万9229歩

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