3月に入り、今年もお遍路シーズンがやってきました。私事ながら、私も今週末から2回目のお遍路をスタートさせる予定です。今回は区切り打ちで、最初は第1番札所・霊山寺から第10番・切幡寺までをゆっくり回りたいと思います。
写真は、第12番札所・焼山寺に続く山道の一本杉というピークに立つ弘法大師像です。この弘法大師像は、少し前傾姿勢になっていて、画面左下の急な階段を懸命に登ってくるお遍路さんたちをいつも見守ってくれています。
焼山寺道の一本杉に立つ弘法大師空海の銅像。遍路ころがしの急坂を登ってきたお遍路さんを迎えてくれる
初めてのお遍路だった前回は、「きょうは◯番札所までいかないと、明日が大変だ」など思いながら、スケジュールをこなすことを優先させてしまったところがありました。「お遍路はスタンプラリーではない」とよく言われますが、やっぱり余裕がなかったと思います。最初だから仕方なかったのかもしれませんが、あとから思い返すと、もっとゆっくりお参りして、じっくりとお遍路さんの時間を満喫すればよかった、という反省の思いがふつふつと湧いてきます。
私は、お遍路の魅力は、札所を参拝することよりも、むしろ途中の遍路道にあると思っています。たどりついた札所に滞在するのはわずかな時間です。それよりも、次の札所に続く道を黙々と歩いているときのほうが、だんだん精神的な集中力が高まって充実している時間になっているような気がするのです。これは前回、遍路道を歩いてみて気づいたことです。
途中の遍路道のほうが目的地の札所にいるときよりも充実しているというのは、どういうことなのでしょうか。私なりにその理由を考えてみると、それは自分が歩くことによって目的地に確実に近付いているという実感があるからだと思います。自分が少しずつ仏様のいる場所に近づいているような気持ちがする、といった表現がしっくりくるかもしれません。随筆家の白洲正子は、高野山に続く町石道について、「まさに密厳浄土にだんだん近づいていく舞台装置」とエッセイ集「西行」で書いていますが、八十八ヶ所の札所が定められた遍路道もそれと同じような仕掛けになっているのだと思います。
以前にブログ記事「『宗教心薄い』現代の遍路」で紹介しましたが、「四国遍路 さまざまな祈りの世界」(吉川弘文館、星野英紀著)によると、遍路道を歩く現代人は「自分には宗教心があまりない」と考えているそうです。それでも、遍路道を歩いた経験のあるひとの多くが「広い意味でのスピリチュアルなものを感じた」「のちの人生にとってかけがえのない経験になった」と述懐しているといいます。このあたりに四国八十八ヶ所のお遍路の魅力が隠されているのだと思いますが、その魅力は札所をお参りすることだけでなく、実は遍路道の途中にたくさんのものが詰まっているような気がします。だから、再び遍路道を歩きたくなるんですよね。
今回は休日を利用して少しずつ巡拝することになりますので、いったいいつになったら四国八十八ヶ所を打ち終えることができるのか、見当もつきません。気の長い話になりそうです。ぼちぼちアップしていくつもりですので、のんびりとお付き合いください。