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情感豊かな物語を伝える古刹

志度寺

 高松市中心部のホテルからことでん志度線に乗って30分あまりで終点の琴電志度駅に着きます。志度は四国八十八ヶ所第86番札所・志度寺の門前町で、いまはさぬき市の中心地です。最近は高松のベッドタウンとして周辺の宅地開発が進んでいるようでした。この近くを走るJR四国の高徳線にはオレンジタウン駅という新興住宅地らしい名前の駅もあります。

 志度駅近くの街道をそのまま5分ほど歩くと、すぐに志度寺の五重塔と山門が見えてきました。山門をくぐると、境内の草木にすごく勢いがあって、なんだか奥深い庭のなかに迷い込んだような印象を受けました。1970年代に建立された立派な五重塔もあって、広い境内と独特の雰囲気を持ったお寺です。

第86番札所・志度寺の門前

 志度寺の歴史はとても古く、推古33年(626年)に海人族の長が十一面観音を祀ったことが始まりとされます。飛鳥時代から奈良時代初期の実力者だった藤原不比等が伽藍を建てたときに「死度道場」と名付けられ、その後不比等の子供である藤原房前が行基とともに境内を整備した際に志度寺と改められたそうです。「死度道場」という名前からわかるように死者供養のお寺で、山号の補陀落山は、第38番札所・金剛福寺と同じように、観音さまがいる補陀落浄土に対する信仰を物語っています。

 志度寺で有名なのは「志度寺縁起」という物語で、「絹本著色志度寺縁起」は国の重要文化財に指定されています。能楽作品の「海人(あま)」(海士とも表記)にもなっている海女の玉取り伝説や心優しい白杖童子の物語など、日本人が育んできた情緒や死生観が伝わってくる内容です。

 「海女の玉取り伝説」については四国新聞社の記事が参考になると思います。
   https://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/densetsu/1/

志度寺の山門をくぐると、草木の勢いに驚かされます

 お参りを終えて志度寺の山門をくぐって外に出ると、「源内さんのお墓」と書かれた案内板が出ていました。源内さんとは、江戸時代中期に発明家として名前を残した平賀源内のこと。教科書に載っているエレキテルをはじめ、マルチな才能を発揮したことで知られています。江戸で活躍した人なのでお墓は東京にもあり、交流のあった蘭学者の杉田玄白が墓碑を建てたそうです。志度にあるお墓は親族や地元の友人が源内さんを偲んで建てたものらしい。源内を題材にした小説やテレビドラマもいろいろ制作されており、故郷の志度でも人気があるようでした。

 志度寺から内陸の徳島方向に1時間半くらい歩くと、第87番札所・長尾寺に着きます。ことでん(高松琴平電気鉄道)長尾線の終点である長尾駅の近くで、街中にあるお寺です。長尾寺も飛鳥時代か奈良時代まで遡る古い歴史を持っていますが、いまは「長尾の観音さん」や「力餅」で親しまれる庶民的な印象のお寺でした。山号は志度寺と同じ補陀落山ですので、宗教民俗学者・五来重は著書「四国遍路の寺」(角川ソフィア文庫)で志度寺と長尾寺がもともと一つの霊場ではなかったと指摘しています。

第87番札所・長尾寺の本堂。境内には庶民的な雰囲気が漂っていました。

 境内にはいろいろな史跡があって、源平合戦の後、兄の源頼朝に追われた源義経の想い人だった静御前が母親の磯禅師とともに長尾寺で得度したとの言い伝えもあります。境内には静御前が剃髪したときに髪の毛を納めたという静御前剃髪塚がありました。大きなわらじが掛けられた山門(仁王門)には、鎌倉時代の元寇のときに出征する将兵の例を慰めるために建てられたという説明が書かれていました。ちょっと変わったところでは、長尾寺は明治維新から大正時代まで、本坊を高等小学校や警察署、郡役所などに提供したという経緯もあるそうです。

【第25日 午前の部】
[歩いた日] 2016.10.25
[コース] 高松市内−志度寺−長尾寺−大窪寺−高松市内
[天気] 晴れ
[歩行距離]25.7km
[歩数] 3万3444歩

【利用した公共交通機関】
 <片原町駅−琴電志度駅>
 ことでん(高松琴平電気鉄道)琴平線−志度線
 料金 410円
 URL  http://www.kotoden.co.jp/publichtm/kotoden/time/

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