半年ぶりに区切り打ちの歩き遍路を再開しました。前回は梅雨どきに吉野川沿いの第11番札所・藤井寺から室戸岬を越えて第26番札所・金剛頂寺まで歩き、ごめんなはり鉄道の奈半利駅で区切りとしました。今回は奈半利駅から再び歩き始め、太平洋に沿って西に向かい、高知市を目指します。
12月の高知は初めてですが、午前9時に高知空港に着いた時、気温は15度。首都圏よりは少し暖かいけど、南国のイメージとは違って、けっこう寒いですね。それでも午前11時前に奈半利駅に着いたときには青空が見えはじめ、歩きだすと一気に汗ばんできました。結局、長袖の登山用ジャケットは早々にザックの荷物となり、白い半袖シャツに、お遍路の白衣を羽織るという、12月とは思えない出で立ちになってしまいました。
さて、きょうの課題は、第27番札所・神峯寺(こうのみねじ)への登降です。海岸沿いの唐浜(とうのはま)から、まっすぐに登っていくので、昔からお遍路さんには「まったて」と呼ばれてきたそうです。
いまはお寺の近くまで車道が通っていますが、ところどころ昔の歩き遍路道が残っています。そのルートはほとんどが幅の狭い尾根道を最短距離で直登するように刻まれていて、途中で何回も息が切れてしまいました。
車道ができる前は、こうした険しい遍路道が海岸近くから続いていたのだそうですから、昔のお遍路さんたちが「まったて」と呼んだのも納得できます。いま歩き遍路用のルートでは、車道が8割、昔ながらの遍路道が2割くらいになっています。実際に歩くと、上り2時間、下り1時間20分ぐらいでしょうか。
車道は安田町が町道として整備していますが、それでも狭い道なので、大型バスは通れず、バスで巡拝するお遍路さんは唐浜でワゴン車などに乗り換えていきます。いずれにせよ、ひたすら坂道を登って降りる遍路道です。
神峯寺は紀元3世紀に神功皇后の勅命で天照大御神を祀ったことが起源とされ、8世紀の奈良時代に行基が刻んだ十一面観音像を本尊として神仏を合祀したと伝わる古い霊場です。1000年以上にわたって天照大御神と十一面観音の両方を大切にお祀りしてきた神仏習合の先駆けのようなところなのですが、それだけに明治時代の廃仏毀釈で大打撃を受けました。このあたりの経緯は2年前に初めて参拝したときのブログにちょっと詳しく書いています。
http://ohenro-online.com/tosa-ed/kounomineji/
神峯寺には幕末のエピソードもあります。三菱財閥の礎を築いた岩崎彌太郎の母が現在の安芸市に住んでいて、彌太郎の成功を願って毎日険しい山道を通って十一面観音にお参りしたそうです。そのくらい神峯寺に祀られている十一面観音の霊験は近隣に知られていたわけです。
また、第6番札所・安楽寺には、神峯寺の「まったて」に関わる霊験譚があります。脊髄カリエスという難病に苦しんでいた女性が、まだ車道がなかった神峯寺になんとかお参りしようとご主人と一緒に這うように登っていたところ、途中で転げ落ちてしまいました。そのときに、何者かに助け起こされ、それを契機にだんだん難病が治っていった、というお話しです。
これはそれほど昔の話ではありません。安楽寺の公式サイトにもこのお話しが載っています。安楽寺の御本尊薬師如来は、難病の治癒に感謝したご夫婦の発願で奉納されたものだそうです。
http://www.shikoku6.or.jp/hotoke.html
四国八十八ヶ所を歩いていると、こうした霊験譚がいまもごく当たり前のように語り継がれている場面にときどき遭遇します。
神峯寺は寺院の経済基盤となる檀家をほとんど持たないにもかかわらず、神功皇后や行基の時代に遡るほど古くから綿々として霊場として営まれてきました。その背景には、人々が語り継いできた無数の霊験譚があるのだろうなあ。暗くなってきた山道を急いで降りながら、そんなことを考えていました。
[歩いた日]2018.12.22
[歩いた距離] 21.2km 30,736歩