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「宗教心薄い」現代の遍路

鶴林寺の仁王門

 現代のお遍路さんが利用する交通機関によってだいたい3タイプ「バス遍路」「クルマ遍路」「歩き遍路」に分けられます。このうち、もっとも贅沢とされるのは「歩き遍路」です。バス遍路やクルマ遍路で四国八十八ヶ所霊場すべてを巡拝するために必要な費用は20万円から30万円くらいでしょうか。これに対して、約1200kmの全行程を歩いて回る歩き遍路は、40日間から50日間の時間と50万円くらいの費用がかかってしまいます。さらに1200kmを歩き通す体力も必要です。

 「いまの時代で、一番の贅沢は、歩き遍路だよ。だって、お金と時間と健康の3つが揃っていないとできないからね」-。これは香川県観音寺市で乗ったタクシーの運転手さんが私に投げかけてきた言葉です。こちらは一生懸命歩いているつもりでも、歩き遍路に対して「贅沢だね」という見方もあるのだと気づかされました。その分、お遍路さんが観光客として地元に歓迎されているという一面もあるのでしょうが…。

 こうした費用や時間をかけても四国八十八ヶ所霊場を巡礼しようとする現代のお遍路さんは、どのような人たちなのでしょうか。

 宗教学者の星野英紀は著書「四国遍路 さまざまな祈りの世界」(吉川弘文館、浅川康宏との共著)で、お遍路さんへのインタビューや体験記の分析などを踏まえて、現代のお遍路さんの実像を描こうと試みています。それによると、お遍路さんを志す人の多くは「自分が遍路に出た動機は信仰ではない」「自分に宗教心はあまりない」と考えているそうです。弘法大師を称える「南無大師遍照金剛」と墨書きされた白衣を着て歩いていても、お遍路さんの多くは「信仰心があるから、お遍路さんを始めたわけではない」「自分はそれほど信心深くない」と思っているということです。なんだか面白いですよね。かくいう私自身も、信仰心からお遍路さんをやってみたわけではありません。

 江戸時代から近代にかけて、お遍路さんにはご利益や霊験を求める人が多く、むしろそれが伝統的なお遍路さんの姿だと言えます。だから、見えなかった目が見えるようになったとか、歩けなかった足が歩けるようになったといった迷信とも思えるような話が四国八十八ヶ所霊場のあちこちに伝わっていますし、弘法大師が金剛杖で岩を叩いたら清水が湧いた、といった荒唐無稽な言い伝えも枚挙にいとまがありません。四国八十八ヶ所巡礼のはじまりとして伝わる衛門三郎の故事を読んでも、弘法大師の霊力と俗世の御利益が強調されています。そうした御利益や霊験を求める「伝統的な」お遍路さんの価値観に対して、現代のお遍路さんはあまり関心をみせません。この傾向は歩き遍路に特に顕著です。

 そんな歩き遍路に比べれば、団体のバス遍路には、自分が遍路に出た動機として信仰や修業をあげるひとがまだ多いそうです。団体のバス遍路は、先達(せんだつ)と呼ばれる案内人が引率し、お参りの作法やお経の読み方、さまざまな言い伝えまで、宗教的な意味を交えて繰り返し教えてくれるので、我流になりがちな歩き遍路よりも、はるかに宗教色があるとの指摘もあります。

第20番札所・鶴林寺の仁王門。ふもとから歩いて登ると1時間30分ほどかかる。山寺のたたずまいが心地よい

 では、「自分には宗教心があまりない」と考えながらも、毎年数千人ものひとたちが、歩き遍路に挑戦する動機は、どこにあるのでしょうか。前出の書籍「四国遍路 さまざまな祈りの世界」によると、その動機を聞かれた歩き遍路の多くは「歩いてみたかっただけ」とか「一人になって自分を見直したい」などと答えるそうです。現代の歩き遍路の動機は多くの場合「歩くことによる自己確認」ということで、現代日本の個人主義的な感覚がにじんでいる感じです。たとえば、歩き遍路には宿泊施設で「個室でなければ絶対に嫌」と言い張るひとが多いそうですが、これも個人主義的な志向の一面なのでしょう。

 ただ、著者の星野は、自身のお遍路さんへのインタビューや体験記を分析した結果として、数十日に及ぶ四国八十八ヶ所巡礼を歩き通した経験者には「広い意味での<宗教的なもの><スピリチュアルなもの>を感得するひとも少なくない」「四国遍路を歩いて完遂した体験が、のちの人生にかけがえのない意味を持つようになったと述懐する人も少なくない」とも指摘しています。そして、歩き遍路が現代のお遍路さんのなかでもっとも贅沢な遍路であることを踏まえ、「いまの歩き遍路はいろいろな意味できわめて現代的である」と結論づけています。

 こうした専門家の分析を読んでみると、歩き遍路の多くは、「自分には宗教心がない」という個人主義的な自己認識を持ちつつも、実際に四国遍路を歩き通してみた結果、人生の中で貴重な体験だったと振り返り、精神的にもプラスになる経験を得ている、と言えそうです。そうした体験や経験を「宗教的」と呼ぶかどうかは、ひとそれぞれでしょう。

 私自身の体験を振り返っても、四国八十八ヶ所巡礼の歩き遍路には、現代社会に暮らす私たちだからこそ強く感じてしまう、不思議な魅力があると実感しました。

 遍路道の景色は田園風景から海や山まで変化に富んでいます。そんな気持ちのいい道筋を毎日20kmから30kmぐらい歩いているとランナーズハイならぬ「ウォーキングハイ」のような気分になってきます。これには霊場を順番に回ることとは少し違う意味合いがあり、歩くこと自体が楽しく、自己目的化している印象です。

 もうひとつ、強く感じたのは、四国遍路がたどる道筋はとても豊かな自然に恵まれており、そこに八十八カ所霊場の札所や神社、弘法大師由来の番外霊場などが点在しているので、歩き遍路が目にする光景は日本人が長い歴史の中で育んできた自然信仰や宗教観にとてもしっくりくる、ということです。日本人は正月には神社で初詣を行い、クリスマスを祝い、葬式は仏教の儀礼に則ることが多いので、宗教的な節操がないとの批判を受けることもありますが、そんな日本人の根っこに流れている自然信仰や神仏習合といった宗教観が、四国の遍路道にはごく当たり前のものとして、いまも存在しています。いろいろな意味で閉塞感が強まっている現代社会のなかで、日本古来の自然観や宗教観が色濃く受け継がれている四国の遍路道を歩き、自分たちの足下を見直そうという気持ちは、多くの日本人が納得できる感覚ではないでしょうか。

 また、歩き遍路たちがたびたび口にする四国遍路の魅力は、四国のひとのやさしさです。お遍路さんをもてなすお接待文化が根付いている土地柄もそうですし、遠路訪ねてきた友人を迎えるように歓迎してくれる遍路宿の存在も、ひとのやさしさなくして考えられません。

 こうした四国遍路の魅力は、バス遍路やクルマ遍路よりも、歩き遍路がもっとも濃密に体験できます。現代のお遍路さんは「きわめて現代的」な存在であると同時に、四国八十八ヶ所霊場の巡礼そのものにも現代人にマッチした魅力というものがあり、年間5万人とも10万人とも言われるお遍路さんが日々その現代的な魅力を発掘しているように思います。

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