霊鷲山の山号を持つ山寺

 四国八十八ヶ所第20番札所・鶴林寺は、標高550mの山頂にあります。「霊鷲山」と大書された山門(仁王門)が境内の入り口です。

 JR徳島駅から通学途中の中高生が利用する徳島バス勝浦線に1時間ぐらい揺られ、勝浦川に沿った生名バス停で降りました。生名は「いくな」と読みます。バス停から山道を1時間30分ほど登り続けてすっかり汗だくになったころ、唐突にコンクリート製の道路があらわれ、そこから少し歩くと、この山門に到着しました。

 霊鷲山は「りょうじゅせん」と読み、お釈迦さま(釈尊)がお弟子さんたちにさまざまな説法をした場所として知られています。現在のインド・ビハール州にある小高い丘で、釈尊の時代にはマガダ国の首都だった王舎城(ラージャグリハ)の近くに位置していたそうです。釈尊は霊鷲山で弟子たちに説法することを好み、「観無量寿経」や「法華経」など大乗仏教の代表的な経典がここで説かれたと伝わっています。

1時間30分ほど急登に絞られ、第20番札所・鶴林寺の山門が現れました

 ところで、般若心経を解説した空海の著作「般若心経秘鍵」の末尾には、「自分は霊鷲山で釈迦が般若心経について説法をしていたとき、自分はむしろの上でその説法を親しく聞いていた。だから般若心経に込められた深い意味を理解しており、こうした達意の解説ができるのだ」(意訳)という説明がなされています。

 もちろん、紀元前5世紀ごろのインドに生きた釈尊と平安初期に活躍した空海は1200年間もの時空に隔てられていますから、常識的に考えれば、空海が釈尊の説法を直接聞くということはありえません。そのためか、この部分をとりあげる研究者はあまりいません。たとえば、仏教学者の宮坂宥勝監修の「空海コレクション2」(ちくま学芸文庫)に収録されている頼富本宏校注の般若心経秘鍵でも「空海の真作部分ではないので、ここでは省略する」とバッサリ切り捨てられています。

 ですが、こうした見方に果敢に挑む学者もいます。宮坂宥勝の息子で同じく仏教学者の宮坂宥洪は著書「真釈般若心経」で、「私はあえて、これは真実を伝えていると思うのです」と述べた上で、「経を理解するということは(中略)釈尊の言葉を直接聞いたという確信と感激、そのような『神秘的』な実体験が、どこかに伴うべきものではないでしょうか」と指摘しています。最晩年の著作である般若心経秘鍵に込められた空海の「宗教的確信」というものにもっと目を向けるべきではないか、と宮坂宥洪は問題提起をしているのだと思います。

 般若心経秘鍵の末尾部分が偽作かどうかはともかく、漢文で書かれた空海の著作をつっかえながらも読み始めると、この「宗教的確信」というものがその底流にあることに気づきます。作家の高村薫は著書「空海」(新潮社)で「宗教的確信は、論理を超越する」と指摘し、空海の密教について、修行による神秘的な身体体験に支えられた宗教的な確信とそれを体系化する卓越した言語によって成立している独創的な世界だ、と深く読み込んだ解説をしています。

 この宗教的確信という話になると、信仰心とあまり縁のない多くの現代人にはなかなか共感しきれないところもあると思います。ただ、空海の著作を少しずつ読み進めるうちに、「谷響きを惜しまず、明星来影す」と三教指帰に描いた若き日の神秘体験から、その宗教的な確信は一本の光の筋のようにずっとつながっていて、そこに長安で学んだ真言密教などがどんどん肉付けされていき、空海の重厚な思想がだんだん成立していったことを感じています。

 ちなみに、鶴林寺が霊鷲山の山号を持つのは、山容が霊鷲山に似ているからだそうです。

 鶴林寺は弘法大師空海が実家のある善通寺から修行場だった室戸岬に向かうときに通ったルート上にあったとみられ、宗教民族学者の五来重は著書「四国遍路の寺」(角川ソフィア文庫)のなかで、善通寺から讃岐平野を通り、第88番札所・大窪寺から第10番札所・切幡寺に抜け、吉野川を渡って第12番札所・焼山寺に登り、そこから山並みを一つ越えて勝浦川に至る道筋があったはずだと指摘しています。

 空海はこのルートに沿ってあちこちで山林修行を続けたとみられており、そこで感得したのが「谷響きを惜しまず、明星来影す」という神秘体験です。鶴林寺は平安初期に桓武天皇の発願で創建され、開基は弘法大師空海とされていますが、20代前半の若き山林修行者だった空海がこのあたりを通ったときに鶴林寺のある場所にすでに寺があったのかどうかよくわかりません。

 ただ、空海をはじめとする当時の山林修行者にとって、鶴林寺や第21番札所・太龍寺のある山塊はなじみ深い修行場だったことは確かで、そうした修行場がいつのまにか大乗仏教にとって大切な経典が説かれた聖地、霊鷲山と重なっていったのかもしれません。

 

 ➡️ブログ「台風一過 山寺をたどる」 http://ohenro-online.com/awa-ed/kakurinnji/

 

 (参考)徳島バス勝浦線 http://tokubus.co.jp/wptbc/routebus/

 

[歩いた日] 2016.10.6
[天気]   晴れ

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