辺地信仰に通じる540段

 四国八十八ヶ所の第71番札所・弥谷寺は「いやだにじ」と読みます。これまた難読の名称です。このお寺は標高382mの弥谷山に貼り付くように高低差のある境内が作られていて、山門から本堂までおよそ540段の階段を登らなければなりません。このため、お遍路さんの間では難所のひとつとされます。

 意を決して急な階段を登り始めると、まもなくお参りを終えた小さな女の子とお母さんが降りてきました。女の子は一所懸命に降りているのですが、足幅が小さいので段差のある階段を一段降りるだけで時間がかかります。とてもゆっくりした女の子の手を握りながら、お母さんは忍耐強く一歩ずつ階段を下りていました。二人ともお遍路さんの白衣がよく似合っていて、みている私の頬まで自然と緩んできます。女の子が大きくなったとき、この光景を覚えてくれるといいなあ、と思いました。

第71番札所・弥谷寺の長い石段を登りはじめたら、お参りを終えた小さな女の子のとお母さんがゆっくり降りてました

 まずは本堂を目指します。108あると言われる人間の煩悩にあわせた108段の石段を越え、さらに15分くらい登りつづけ、山の斜面にへばりつくように建てられている本堂に着きました。ガラス戸越しにご本尊の千手観音菩薩が拝めます。本堂の手前にある石段の踊り場が展望台になっていて、ところどころに小さな山と溜池が点在する讃岐平野がきれいにみえました。

 本堂から中腹にある太子堂に打ち戻り、大師堂の奥にある獅子之岩屋にもお参りしました。この獅子之岩屋は、弥谷寺が奈良時代に創建される前からこの場所にあったとも言われる岩窟で、空海が真魚(まお)という幼名で呼ばれていた9歳から12歳にかけて、この場所で学問に励んだと伝わっています。空海が幼少期を過ごした善通寺から徒歩1時間半ほどで弥谷寺に来れるので、こうした伝承が生まれたのかもしれません。

 もともと弥谷山は、弥谷寺が創建される以前から辺地信仰の霊場だったとも言われます。宗教民俗学者・五来重の著書「四国遍路の寺」(上下、角川ソフィア文庫)によると、辺地信仰とは海岸線を歩いて回って修業するひとたちによる古代からの信仰で、四国に限らず、熊野や能登などでも行われていたそうです。海や山に神聖なものを感じる日本人の自然信仰と密接に関わっており、いまの四国遍路や熊野古道の母体となった信仰のかたちとされます。

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 弥谷山には自然の洞窟が多く、そうした辺地信仰の修行者たちにとって格好の修行場だった、と五来は前出の「四国遍路の寺」で推測しています。幼少期の空海がこの岩窟で学問に励んだかどうかは別として、求道精神に満ちた青年期の空海が弥谷寺やその周辺に滞在していた修行者にいろいろなことを教わった可能性はあるだろう、というのです。

 弥谷山を越えて瀬戸内海方面に向かうと四国別格二十霊場第18番札所の海岸寺があり、瀬戸内の海岸線もすぐそこです。四国の海岸線を歩いて回る辺地信仰の修行者が、その途中にある弥谷山で修業していたとしても不思議のない地形です。辺地信仰の霊場となると、仏教伝来よりもさらに時代が遡り、古代日本から続く信仰の場ということにもなります。そうした修行者たちはコメなどの五穀を避けて自然の木の実や草の根だけを食べる木喰(もくじき)を行い、ストイックな修業を続けたそうです。

 空海は名もない沙門に密教や虚空蔵菩薩求聞持法を教わったと著書「三教指帰」に記していますが、そうした空海と無名の沙門たちとの出会いがもしかしたらこの弥谷寺周辺で起きたのかもしれません…。どうやら、巡礼者の妄想がまたまた膨らんでしまったようです。

少年時代の空海が学問に励んだと伝わる「獅子之岩屋」。弥谷寺の名所となっています

 獅子之岩屋にはいま、空海とご両親の石仏が祀られています。ちなみに獅子之岩屋という勇ましい名前は、岩窟の形が獅子がほえるときの口のかたちに似ているとして名付けられたそうです。

 弥谷寺は540段もの石段が続くため、お遍路さんの間では難所のひとつとされてきましたが、足下が不安な参拝者のために山門手前の駐車場から中腹の378段目あたりまでシャトルバスもあるそうです。

【第22日 午前の部】
[歩いた日] 2016.10.22 土曜日
[コース] 善通寺市内-弥谷寺-善通寺-金倉寺-坂出市内
[天気] 雨ときどき曇り
[歩行距離] 22.7km
[歩数] 2万9229歩

 

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