死のイメージ重なる遍路道

 四国八十八ヶ所第45番札所・岩屋寺の参拝を終え、奥の院を経由して第44番札所・大寶寺に向かいます。大寶寺と岩屋寺の間は同じコースを往復するので、歩き遍路たちには「打ち戻り」と言われていますが、私は久万バス停から岩屋寺までタクシーを使ったので、片道だけ歩くことにしました。

 古びた楼門をくぐって岩屋寺の境内をあとにすると、山道はすぐに九十九折(つづらおり)になって急な上り坂が始まります。たくさんの石仏が道ばたに点在し、いかにも霊場らしい雰囲気だな、と思いながら歩いていると、いきなり大量の苔に覆われた墓石がいくつも折り重なるように放置されている一角に出くわしました。説明板によると、これらは鎌倉時代から江戸時代にかけてこのあたりで修業した行者たちの墓石で、岩屋寺一帯に散らばっていたものを一カ所に集めたとのことです。いまでは誰を弔ったのかわからなくなった墓石の数は、優に100個を超えるのではないでしょうか。一カ所に集めたといっても、墓石の多くは倒れたり重なりあったりしていて、そこに分厚い苔が密生しているので、異様な苔だらけの生命体のようにも感じられます。近づいてみると、かなり不気味です。

第45番札所・岩屋寺から奥ノ院に向かう山道で、倒れて分厚い苔に覆われた墓石の群れに出くわした

 四国八十八ヶ所のお遍路さんには、どこか死のイメージがつきまとう、とよく言われます。亡くなった近親者の冥福を祈るために四国八十八ヶ所の巡礼を発心したというお遍路さんはそれほど珍しくないし、高知県出身の作家・坂東眞砂子のホラー小説「死国」のように四国八十八ヶ所巡礼を死のイメージと重ねる物語もあります。お遍路さんが持ち歩く金剛杖はお遍路さんの分身だとされますが、お遍路さんが途中で亡くなったときに、かつてはその金剛杖を卒塔婆や墓石の代わりに使ったという話も聞きました。

 そのくらい死のイメージが身近にあるお遍路さんですが、この雑然と折り重なるように放置され、分厚い苔に覆われた大量の墓石ほど、死の存在感を強烈に感じさせられたモチーフはありません。この岩屋寺一帯では1000年を超える昔から行者たちの修業が営々と続けられてきたわけですが、その営みが行き着く果てを象徴する光景のようにも思えます。暗くなってきたら、この遍路道は気味が悪くてたまらないでしょう。

 苔に覆われた大量の墓石が醸し出す死のイメージに圧倒されたまま歩き続けると、まもなく岩屋寺の奥ノ院「逼割禅定(せりわりぜんじょう)」に着きました。ここは岩の裂け目をよじ登る修業場で、登った先に小さな祠があって展望が開けるそうです。ただ、危険なので普段は入り口が施錠されており、納経所で鍵を借りてこないと入場できません。いささか気持ちを動かされましたが、今回はそのまま先を急ぐことにしました。

 奥の院からさらに急な山道を登り続けると、やがて道標代わりの石仏が置かれた峠があり、登り坂が終わります。ここから遍路道は緩やかなアップダウンのある稜線になり、静かな山道を快適に歩けます。ただ、遍路道の周囲は杉の植林になっていて、展望はありません。

 かつて遍路客向けの茶屋があったという八丁坂から尾根道を外れ、沢沿いの山道を伝って林道におり、しばらく歩くと畑野川集落に近い車道に出ました。ここから坂を登って車道をそのまま歩けば、全長632mの峠御堂トンネルを通って大寶寺に向かうことになります。私は少し遠回りですが、トラックが往来するトンネルを歩くのは好きになれないので、旧来の山越えルートを選びました。

第44番札所・大寶寺。階段の上に堂々たる本堂がそびえていた

 第44番札所・大寶寺もまた緑あふれる堂々たる霊場です。宗教民俗学者・五来重の著書「四国遍路の寺」(角川ソフィア文庫)によると、もともと大寶寺は岩屋寺や洞窟のある古岩屋(ふるいわや)とワンセットになった修行場だったそうです。霊山として名高い石鎚山とあわせて、このあたりは古くから四国の一大霊場だったのですね。鎌倉時代に活躍した地元の伊予(現在の愛媛県)出身の一遍上人も、大寶寺から岩屋寺に連なる一帯で修行した行者のひとりでした。

 大寶寺の立派な仁王門をくぐると、階段の上には堂々とした本堂がそびえていました。かつて大寶寺を訪れた行者たちは、ここから始まる厳しい修行を思い描いて、身震いしたのかもしれません。そんな風に想像力をたくましくしながら、ゆっくりとお参りしました。

​ 【第17日 午前の部その2】
[歩いた日] 2016.10.17 月曜日
[コース] JR松山駅周辺-久万高原-岩屋寺-浄瑠璃寺-石手寺-JR松山駅周辺
[天気] 晴れ
[歩行距離] 22.0km
[歩数] 2万9298歩

 

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