東寺展:金銅舎利塔が伝える空海の演出力
東博の特別展「国宝東寺ー空海と仏像曼荼羅」。先週終わってしまったやつですけど、会期末ぎりぎりに行ってきました。最大のみどころは、やっぱり東寺講堂の立体曼荼羅。大日如来とお不動さまはパネル写真でしたが、それでも国宝の菩薩や明王がずらり。ゾウに乗った帝釈天は撮影OKとあって、アイドル並みに人だかりがー。イケメンで名高い仏像なので、角度を変えて撮ってみました。
最澄が筆写した空海の「御請来目録」とか、恵果の潅頂を受けた空海が長安から持ち帰った五鈷杵や五鈷鈴はすでに展示されていませんでしたけど、恵果の監修下で空海が長安の職人に作らせたと伝わる仏具のうち、金銅舎利塔の実物を間近に見ることができました。会場には後七日御修法(ごしちにちみしほ)の道場が再現されていて、その中央には金剛舎利塔のレプリカに置かれていました。図録をみると、雰囲気が少しわかると思います。
後七日御修法は国家の安寧を願う宮中最大の仏事ですが、同時に歴代の天皇にとっては天皇や皇族の個人的な繁栄を願う法要でもあったと言われます。だから、平安時代以降、密教に帰依する天皇や皇族が非常に多く、歴代天皇の墓所が真言密教の本山のひとつである泉涌寺に置かれるなど、空海直系の密教は皇室に深く関わってきました。
承和2(835)年に後七日御修法をスタートさせるとき、この歴史的な法要をプロデュースした晩年の空海は、道場の中央に金銅舎利塔を配置することで、空海自身が恵果から託された仏舎利に象徴的な意味を持たせたのでしょうねー。仏教の最終形としての密教を位置づけ、その密教の正統なる継承者の証として長安から持ち帰った仏舎利を捧げて、天下国家の繁栄と皇室の弥栄を祈る。これほどパワーのある演出は、当時も現在も、空海にしかできないのではないでしょうか。とにかく想像力を掻き立てられる展示でした。
ところで、空海が持ち帰った仏舎利は、後年、ちょっとした騒動を巻き起こします。源平合戦の兵火で消失した東大寺大仏殿を再興したことで知られる勧進僧の重源(1121−1206年)が、室生寺にあった石塔の下に埋めてあった舎利を手下の僧侶に盗み出させたという事件です。重源は高野山を拠点にいろいろなお堂の建設資金を集める勧進に携わっていましたが、資金調達のためには大口の寄進者だった朝廷関係者の歓心を買う必要がありました。当時は仏舎利への信仰が高まっていて、平たく言えば、朝廷関係者のご機嫌をとるために空海が将来した仏舎利を盗んで献上しようとした、というお話しです。
きな臭い話には黒幕がいるもので、このエピソードで背後に見え隠れするのは、源頼朝から「日本一の大天狗」と呼ばれた後白河法皇です。「御請来目録」によれば、空海が持ち帰った仏舎利は80粒。このうち、室生寺には32粒が空海将来の如意宝珠に納めて埋められていたそうです。事件を聞いた後白河法皇は重源に仏舎利を返却するように求めたのですが、その際に2粒を後白河法皇の寵妃だった丹後局がとってしまったらしい。この顛末を日記「玉葉」に残した九条兼実は「実にその(法皇の)議なるか。恐るべし。恐るべし」と書いています。
このエピソードは、仏教民俗学者・五来重さんの名著「高野聖」(角川文庫)で知りました。私は高野山大学通信課程の授業で参考文献に挙げられていたので読んだのですが、密教や高野山と俗世間の関わりが多面的に描かれていて、おすすめの一冊です。