町石道を歩く(3)天野の里と丹生都比売神社

 九度山の慈尊院から町石道(ちょういしみち)を歩き始めて1時間半、六本杉という分岐点に着きました。左のなだらかな道はこのまま尾根筋に沿って高野山に続く町石道で、右側は坂道を下って天野の里に向かいます。少し遠回りになりますが、私は天野の里に寄り道することにしました。

 天野の里は、随筆家の白洲正子が「かくれ里」(1971年、講談社文芸文庫)や「西行」(1988年、新潮文庫)といった著作で「あんなに美しい田園風景を見たこともない」「天野は私にとって、文字どおり天の一廓(いっかく)に開けた夢の園」(西行)などと格調高くほめあげたことで知られています。さらに天野のシンボルである丹生都比売神社が高野山や熊野三山、吉野・大峰とともに2004年、ユネスコの世界遺産に登録されたことから、旅行者をひきつける観光スポットになりました。

丹生都比売神社の鳥居をくぐると、朱塗りの丸い橋が出迎えてくれました

 六本杉から滑りやすい坂道を15分ほど下っていくと、県道沿いのおだやかな田園風景のなかに飛び出しました。ちょうど稲穂が実る時期でしたので、黄金色の波が美しく広がっています。徒歩数分でお目当ての丹生都比売神社に着きました。

 まず朱の鳥居をくぐり、すぐに朱の丸い橋を渡ります。どちらも朱塗りがとても鮮やかで、緑の濃い木立や鯉が泳ぐ池を眺めながら、なんだか物語の世界に迷い込んでしまったような錯覚を受けました。白洲正子は丹生都比売神社を初めて訪れた時の印象を「杉の大木の中に眠れる美女の如く鎮まっていた」と書いています。それほど美しい言葉は思い浮かびませんが、端正で美意識の高さを感じさせられる境内です。

 丸い橋を渡ると、正面に端正な拝殿が鎮座していました。丹生都比売神社の「丹」とはもともと水銀を含む赤砂のことで、水銀の産地に「丹を生む」という意味から「丹生」という地名がつけられたといいます。全国各地にある水銀の産地には丹生神社が祀られ、この丹生都比売神社は各地にある丹生神社の総本社という位置づけです。水銀採掘で勢力を得た天野祝(あまのほうり)氏の氏神でもありました。
 
 弘法大師空海の遺言として伝わってきた「御遺告」には、高野山の開創にあたって、空海が土地神だった丹生都比売から高野山一帯を譲り受けるエピソードが出てきます。それによると、仏教の根本道場を求めていた空海の前に、巫祝という丹生都比売の仲介者が現れ、「妾、神道にあって威福を望むこと久し」というメッセージを伝えてきます。巫祝は高野明神とも狩場明神ともされ、丹生都比売の息子とも伝えられています。

 丹生都比売のメッセージは、自分に敬意を払ってきちんと祀ってくれれば、高野山の土地を譲ってもいいよ、といった意味合いです。実際、空海は高野山に丹生都比売を勧請し、丁重に祀りました。壇場伽藍の中門を入って左奥にある御社(みやしろ)がそれです。

丹生都比売神社の拝殿。端正な印象を受けます

 最近の研究では、御遺告は空海の発言をそのまま記録したものではなく、後世の創作が含まれているとの見方が有力になってきましたが、空海がもともとの土地神であった丹生都比売に相当な敬意を払ったことは確かです。空海は高野山を開創するにあたって土着の信仰を決して排除することなく、既得権者である女神に敬意を払いながら勧請という形で共存を提案し、迎え入れていったわけです。

 空海が真言密教の根本道場として開創した高野山に土地神の丹生都比売神社を勧請する過程は、編集工学研究所を主宰する松岡正剛が著書「空海の夢」で「これはあきらかに神仏習合のティピカルな進行を物語っている」と指摘したように、日本独特の神仏習合が進行するプロセスの典型例です。異なる宗教が出会うときに起きる悲劇的な対立は、現代社会でもしばしば戦争にまで発展しています。しかしながら、日本では伝統的な神道が外来の仏教と出会ったとき、いろいろ摩擦はありながらも、結果的には神道と仏教の双方に敬意を払いながら時間をかけて神仏習合という形を作り、おだやかに一体化して共存する道を歩みました。こうした対応は日本人の大いなる知恵であり、もっと見直されてもいいと思います。

山の信仰を感じさせる中丿沢神社。はるか昔にタイムスリップしたような気がしました

 丹生都比売神社から町石道に戻る道を探していると、アスファルトの道沿いに「中之沢明神」と書かれた案内板がありました。気になったので畑の作業道から雑草がおおいかかる小道をかき分けるように5分ほど歩くと、杉木立のなかに小さな祠をみつけました。祠自体はそれほど古くはないのかもしれませんが、苔むした石積みの基壇が歴史の厚みを感じさせてくれます。周囲には誰もいなくて、なんだか中世の世界に迷い込んでしまったような、不思議な空気感のある場所でした。

 案内板によると、祠の主は丹生明神と狩場明神です。この二柱の明神さまは、丹生都比売と高野明神と同じで、天野には沢に沿ってこうした祠が3つ伝わっています。こうした沢筋には鎌倉時代から郷供僧や宮仕と呼ばれる人たちが住み、こうした人たちによって丹生都比売神社が維持されていたとのことです。明治初期の神仏分離令で神社と寺が分割されるまで、大きな神社には神社の事務所にあたる別当寺と呼ばれる寺があって神官と僧侶が同居することもごく当たり前に行われていましたから、高野山金剛峯寺と丹生都比売神社の親密な関係が続くなかで、このあたりには神社や寺の関係者が暮らしていたようです。沢筋なので水の便もよく、住みやすかったのかもしれません。

 八丁坂と呼ばれる滑りやすい急坂を20分ほど登り、一汗かいたところで町石道との合流地点となる二ツ鳥居に着きました。以前はこの鳥居から天野の里が見えたそうですが、現在は草木が茂ってよくみえませんので、すぐ隣にある展望台から眺めました。白洲正子が愛した「かくれ里」の美しい姿が一望できます。

町石道に戻り、二つ鳥居から天野の里を遥拝しました

 二ツ鳥居は町石道を歩くひとたちが天野の里にある丹生都比売神社を遥拝するために弘仁10年(819年)5月3日、空海が設置したと紀伊続風土記に記述があるそうです。当初は木製でしたが、江戸時代の慶安2年(1649)5月に堅牢な石造りの鳥居が作られ、現在に伝わっています。展望台から天野の里を眺めていると、高野山に登るひとはこの土地を譲ってくれた丹生都比売に敬意を込めてきちんとあいさつをしてほしい、そんな空海のメッセージが伝わってくるような気がしました。

[歩いた日] 2017.9.29
[天気]   晴れ

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